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プロがプロに聞く経営の話
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Guest   フェローテック社長 山村 章
Host オンキヨー会長 大朏直人

ゲスト…山村 章(やまむら・あきら)氏 -フェローテック社長

1944年生まれ、52歳。66年3月、慶応義塾大学工学部卒業後、アメリカ留学。69年6月、ノースイースタン大学大学院修士課程修了。同年7月、ケンブリッジ・サーミオニックス社入社。79年12月、フエローフルイディクス社入社。80年9月、日本で現フエローテック代表取締役に就任し、磁性流体応用製品のトップメーカーを率いる。技術会社してサーモモジュール等、新素材開発にも成功し、米国、中国を始めとする国内外に開発、生産、販売拠点を持つ。本年10月18日に店頭公開を果たした。

聞き手…大朏直人(オンキヨー会長)


半導体やコンピューターでハイテク製品に欠かせない磁性流体のトップメーカーとして活躍するフェローテック社。創業16年で株式公開を果たし、これからはサーモモジュール(電子冷凍)技術をもう一つの柱として育てる。先端技術企業を引っ張る山村章社長に、大朏直人社長が創業のいきさつ、先端技術の将来性などについて聞いた。

大朏 この度は、店頭公開おめでとうございます。
 
山村 ありがとうございます。
 
大朏 ところで、政治家の山村新次郎さんはお兄様ということで。
 
山村 ええ。淀号事件の。私より10歳年上です。
大朏 政治家一家ということですか。
山村
親父の代からで、戦後最初の選挙区からです。
大朏 山村さんご自身は慶応大学を出られて。


父から逃れたくて米国へ

山村 66年に出まして、翌年アメリカに渡りました。実は慶応も志木高からずっと7年間いましたから大分飽きまして、大学1年の頃から「卒業したらアメリカに行かせてくれ」とは言っていたんです。工学部にいたものですから、真面百に勉強したいという気持ちが半分と、親父の呪縛から逃れたいという気持ちが半分。当時は親父がまだ政治の現役でしたから、「今日はどこそこの社長と会ってきたから就職は大丈夫だ」とか、そんな話ばかりされまして。これでは、どこかの大会社に入って偉くなった時に、自分の力で偉くなったのか、親父の力でなったのかが分からなくなるという気配を感じまして。とにかくアメリカに行ってしまえということになりました。
大朏 米国ではどんな過ごし方を。
山村 たまたまですが、奨学金をもらえることになりまして、1ドル360円時代に月500ドルもくれました。当時の大卒の初任給が23,000円位でしたから、こんなにうまい話はないと思って。授業料もただなんですよ。それでノース・イースタン大学にお世話になりました。奨学金の代償として、最初の1年間は、実験の助手やレポートの点付けをやらされまして、2年目からは、熱力学や材料力学の講師をやらされました。大変なことは大変でしたけれど、ある意味では、お金がもらえて、大学院や基礎的科目の勉強まで全部できましたし。しかも、英語で教えますので、英語の勉強にもなりますから、非常にラッキーでした。
大朏 それで生徒には「先生、先生」って言われて。
山村 向こうの生徒は真面目でしてね。ですけれど、アメリカの考え方では、ある課程を卒業したと言うと、それはすなわち、教わった先生とイコールなんだということになるんです。金を払って、習って、覚えきったあかつきには、その先生と同じレベルなんだと。日本では「師の陰は踏まず」というのがありますが、全く同等ですよ。ですから、企業側も「大学を卒業したらその人材は全部使えるんだ」という考え方です。日本の会社は「3年位は使いものにならない」という考えですが、アメリカではいきなり仕事を任せてしまいますからね。たまたまノースイースタン大学がユニークなシステムを持っていまして、僕の場合は、3カ月学校で授業を受けたら次の3カ月は働かされるわけです。3カ月3カ月で1年で4クオーター。普通、アメリカの場合、修士は勉強だけしていれば1年で取れるんですが、それを2年がかりで取りました。
助手の仕事をもらえない普通の学生は、色々な優秀な会社に、学校の世話で行けるんです。5年コース、4年コースと会社を転々としますと、自分の行きたい会社、合っている会社が大体わかってくるものですから、ノースイースタン大学の卒業生の評判が良くなりましてね。今では、スタンフォード大やハ−バード大を抜いて、トップエグゼクティブの数はノースイースタン大が一番多いと「FORTUNE」誌で読んでびっくりしました。そういう意味では慶応よりもノースイースタン大にお世話になりましたね(笑)。
大朏 面白いものですね。
山村 それで、このまま博士課程まで進んで、のんびりと学校の先生でもやっていようかなと思ったくらいなんですが、どこでどうボタンを掛け違えたか、女房が日本から来てしまいましてね。一緒に暮らすようになってしまったんです。
大朏 もともとお付き合いをされていたんですか。
 
山村 ええ。子どもができたって言われまして、これでは働かなければいけないということに。私は修士論文でサーモモジュール(電子冷凍)技術を勉強していたんですが、そのサーモモジユールの会社がケンブリッジにありまして、そこで2年間位働いたんです。
 その会社の社長のお兄さんが面白い人で、MIT(マサチューセッツ工科大学)を1年落第した男なんですが、ファラデーの日記に記してあったことを全部実験したんですよ。彼は「どうやって電流は計るのか」「電気とは何んぞや」などと私に質問を浴びせるんですね。随分、勉強させられました。


ベンチャー興こして苦労 

大朏 その会社にずっといらっしやったんですか。
山村 いいえ、その会社の上司に引っ張られて、純粋ヒ素をつくる会社を興こしました。アリゾナ州とユタ州の中間にある関東平野ほどもある田舎の、人口が6,000人しかいない所に工場を建てまして、3カ月後には99.9999%の純粋ヒ素をつくるのに成功しました。売り上げが100万ドル、粗利益は80%の優良会社になったんです。ところが、私の上司だった社長が大ボラ吹きで、数百万ドルの会社のような振る舞いをするんです。それで資金繰りが苦しくなりまして、倒産。今だに給料を貸したままですよ(笑)。英語で喧嘩もできるようになっていましたし、ハーバードのビジネススクールに行くよりも、いい経験をしましたよ。
大朏 それから、どうされたんですか。
山村 向こうで永住権も取り、アメリカ市民になろうかとも思ったんです。ところが、周りも年を取り、14年目にして初めてホームシックにかかったところヘフェローフルイディクス社から「日本で磁性流体事業をやらないか」という話がきまして、帰国することになりました。
大朏 磁性流体というのは読者に分かりにくいものですので、簡単に説明してもらえますか。
山村
簡単に言えば、磁気を帯びた砂鉄をドロドロの状態にしたようなものです。磁石と組み合わせて、半導体製造のシーリング(密封)用に使います。当時は半導体製造装置の80%は米国から輸入していましたが、将来は日本でもつくることになるだろうと思いまして、この事業に身を投じることにしました。
大朏 サンプルがありますね。それで実際に見せて下さい。
山村 これが磁性流体なんですよ。これに磁石を近づけますとね、磁石に吸い付くでしょう。この性質を応用して、回転軸の周りの隙間にこれをたらしてやりますと、液体の壁ができるんです。また、オンキヨーさんのスピーカーのマグネットの部分にこれを入れてやりますと、いい音色になるんです。
 
磁石に吸い寄せられる磁性流体
大朏 今売り上げで一番大きいのは磁性流体ですよね。
山村 ええ。36憶円の中で34憶円くらいです。サーモモジユールの方は、本格的に打ち出したのが3年ほど前でしたから、昨年が2億円で、今年が4億円。けれど、磁性流体よりも応用範囲は広いですから。
大朏
磁性流体の方は、アメリカの会社が開発したものだったのですか。
山村
これは、ボストンのある会社が1960年代の中頃にNASAから依頼を受けて始めたものです。ロケット宇宙開発の中で、磁石に反応する液体を作ろうというプロジェクトがありまして。けれど、急激にNASAの資金がなくなりまして、開発プロジェクトも打ち切られたわけです。その時に2人のエンジニアがNASAから引き受けてつくったのがフェローフルイディクス社でして、69年から営業を始めていました。
大朏 今では御社の技術がマルチメディア関連に幅広く利用されていますね。
山村 コンピューターシールと真空シール、サーモモジュールの3つの柱が出来ましたから、公開を機にさらに事業を拡大していきます。
大朏 大変利益率のいい仕事ですからうらやましいですね。このような会社が出てこないと、日本はだめになってしまいますよ。メーカーはどんどん海外に出て行ってますし。 サーモモジュールに話を移しますが、これも結構古くからある技術なんでしょう。
山村 もともとは軍隊の応用が始まりなんですよ。58年のハーバードビジネスのレポートに、20年後の78年にはアメリカのエアコンと冷蔵庫の8割がこれに代わるというのがありまして、アメリカの優秀な企業が開発を始めましたが、60年の半ばには全てやめてしまったんです。なぜかというと、例えば熱効率が半分以下でビルディングを冷やそうとしたら2倍3倍の電気が必要でして、これを全国民がやったら大変なことになるというわけなんです。その後は一切投資されませんで、技術だけが残っているという現状です。
大朏 片面で取った熱と同じ量の熱が逃げるわけだから、それをどんどん重ねていけばいい。プラスマイナス60度くらいですか。
山村 70度くらいです。
大拙 でも、相変わらずこれを作るのには手間と費用がかかるんですか。
山村 今面白いことをしていますのは、この材料を中国で作り始めているんです。


サーモモジュールで世界市場の8割を取りたい

大朏 中国には材料を採れる所があるとか。
山村 中国に開発の子会社を1年半前に作りまして、ここには優秀なエンジニアがおり、ようやく原材料の精錬から結晶の製造工程までを確立することができました。来期からはメイドインチャイナのものが出てきますから、コストが一気に下がるでしょう。
大朏 そうだったら、使い道が一気に増えるかも知れませんね。
山村 世界のマーケットの8割を取るつもりでいます。
大朏 安かったら使い道はいくらでもあるんですよ。音はしないし、排気ガスもないでしょう。極端なことを言えば、スイッチーつで冷房も暖房も可能。
山村 今フロンの間題で、小型の冷蔵庫からこれに置き換えようという話が出始めておりまして。あとは飲み水を冷やす機器とか。コンプレッサーはどうしても音がしますからね。
大朏 病院やホテルでも、冷蔵庫の音はうるさいですからね。気になったら眠れない。そういう意味では、片方はお湯で片方は水、ということもできるんですよね。こちらの熱を奪ったものが、反対側を温めるわけですから。
山村 あとは、我々の応用製品の中で今一番新しいのはDNA(遣伝子)の増殖装置ですね。これは、DNAがある状態の中で90度以上に熱すると分かれ、それを5度くらいまで下げるとニョキニョキと増えて、ワンサイクルもすると倍くらいにまでなるものなんです。この機械をつくっている会社が伸びています。それまでは、このテーブルの倍くらいに乗る機械でコンプレッサーを使ってやっていたのですが、我々の機械は、より小さくて速度が速いので、その会社は圧倒的にシェアを伸ばしているんです。
大朏 公開を果たされて、今後は社員にどの様な将来像を語っていかれるのですか。
山村 わが社は、一般には見えないような商品を扱っていますが、基本的にはマルチメディア産業の発展に必要なものばかりですから、当分そちらは成長産業なので、その中で「種」はどこに見つけていこうかというのが一つです。それから、会社はまだ小さいのですが、アメリカに長くいたこともありますので、当時のネットワークもまだありまして。
大朏 使い切ってはいないわけですね。
 
山村 それと、中国では、製造子会社、開発子会社が成功し始めています。ということで、自分では「トランスナショナルカンパニー」だと勝手に言いだしました。目本からちょっと外を見ますと、まだまだやることはいくらでもありますからね
大朏 そういう意味では、向こうで勉強していた頃の仲間たちもそこそこいい年齢になってきて、社会的地位もいいところまで来ているでしょうから、これからは、そういった人脈もますます使える時期になっていきますよね。それは大きな財産だと思います。


創業者を越える人材出てほしい

山村 ただ、今までの種や、今蒔いている種はすべて自分で蒔いたものなので、社員にもこれからはハッパをかけていかないと。
大朏 それは創業者の永遠の悩みですよ。「自分が考えたもの、自分が関わったもの以外で、社員が何か違うものを考えてくれたら」というのは創業者の願いですね。僕も会社をいくつか経営していますけれど、ある会社は、今だに僕が考えて、つくったお客さんで食べていますしね。変わったといってもせいぜい機種が変わる程度。全然違うものには行かないんです。だから僕が目を向けなくなると、そこはそれなりに停滞しているわけ。これから山村さんも、自分以上のものを部下がつくり出してくれるかというと、無いに等しいですよ。まず、創業者が生きているうちはそうは変わらない。例えばソフトバンクの孫正義社長にしても、彼がやっていること以上のことを社員がやれるわけがない。孫さんが死ななければ次の人は出てこないでしょう。
まだ、僕は技術屋じやないですから、適当に騙されることも知っているわけですが、山村さんが気を付けた方がいいと思うのは、騙されるのは下手だと思うんですよ。例えば、部下が空気からじゃがいも作るようなことを言ったとすると、素人なら「そんなものが出来たらすごいなあ」と言いますよね。でも、山村さんの場合は、ああだろう、こうだろうとつめていくでしょうから。
山村 つめる前に「そんなもの出来るかバカ!」ってどなっちやいますよ。
大朏 すると、社長以外に誰も勇気を持って、新しいものをやろうと言わなくなる。だから、自分以外の誰かが何かつくってくれるなんてほとんど望み薄だね(笑)。
山村 僕は楽をしようと思ってはだめですね。
大朏 何回かこういう席で言ったこともあるんですけれど、僕は、自分が社員の誰かよりもコンサバティブ(保守的)になった時が、自分のやめる時だと決めているんですよ。僕はいつも革新的であろうと思っています。会社の経営では、そうなった時が負ける時。
山村 「犬も歩けば棒に当たる」という言葉がありますが、例えば、僕がアメリカだとか都内を歩いていると、何かしらビジネスチャンスがあって、人とぶち当たったり、技術とぶち当たったりとチャンスが多いんです。ところが、同じ所を動いていても、何も発見しない人もいる。その差が大きいんですよね。
大朏 すごく分かるな。そうだと思いますよ。
山村 話がどんどん前向きに広がっていく人間同士とね、そうではない人間というのが、あるみたいですね。
大朏
結局は、いい仲間に恵まれるかどうかというのが大きいんですよ。大きいというより、それだけなのかも知れないですけれど。そういう意味では、山村さんは日米で仲間に恵まれているわけですから。向こうのエンジニアとも接してこられて、アメリカと日本の研究開発の違いというのは感じられたことがありますか。


日本の技術者はリスクを取らない 

山村 何と言っても一番は、日本のエンジニアがリスクばかり気にしているということですね。例えば事業部長でも技術部長でも、今自分が担当しているものを失敗させないというのが最優先。それに比べて、アメリカでは、失敗することによって学びますから、新しいことを恐れないでどんどんトライしますね。これが一番大きい差ですね。わが社の製品にしても、アメリカの会社に持ち込めば、エンジニアは大いに評価して前向きにやってくれます。日本では、「競争相手がやっているのならやりましょうか」とか、「あそこは扱っているの」という声が多いですね。ですから、役人体質がそのまま乗り移っているようなところがありますね。
大朏 昔のアメリカは、360円時代のことですが、僕が行った時にも、非常にオープンで、工場も平気で見せてくれましたし、何でも教えてくれましたよね。でも、最近私が行くと、工場を見せるどころか、顔を見れば「カネ出せ」と(笑)。
山村 実は60年の後半に、大学院に行っている頃ですが、ボストン辺りで日本の工業視察団の通訳もやっていたんですよ。今から考えれば、結構中堅どころが来ていまして、最高級のレストランでご馳走してくれたりしていましたよ。エレクトロニクスとか、半導体工場の中では、いかに設計して、いかにつくって、いかに品質管理をしているかというのを大いに宣伝するわけです。てっきりお客さんだと思っていたんですね。それなのに、数年したら日本で似たようなものを続々とつくってしまいましたからね、70年代半ば過ぎからは、完全に日本人はシャットアウトでしたよ。
大朏 そうですね。
 
山村 そういう意味では、アメリカにはハイテク、セミコンダクターに関する怨念は結構ありますよね。
 
大朏 ええ。それは全く日本が悪い。
山村 ケミカルとか鉄鋼だとか、古い産業ではきちんとロイヤルティを払うなりしたんですが。
大朏 ああいう風にするのが日本らしいですね。
山村 アメリカにもいけない所はあったんですよ。日本人に対して余りにも無警戒でしたから。でも、彼らにしてみれば、騙されて痛い目に遭ったという気持ちが強いでしょうね。
大朏 ですから今は、何でも秘密保持契約を結ぶ。段々やりにくくなりますね。とは言っても、結局行き着く所は人との付き合いですから。
山村 人的にはアメリカ人はヨーロッパの人に比べて明るくて、素直ですしね。
大朏 明るくていい人が多いですし。
山村 シリコンバレーなんかでは、60歳を遇ぎてもベンチャービジネスなんか、一生懸命やってる人もいますしね。くたびれている時にあそこへ行くと、元気が出ますね。
大朏 山村さんにとっては第二の故郷ですから。
山村 そうとも言えますね。
大朏 今でも技術屋として、英語を駆使して欧米人と付き合いができる人というのは少ないんですよ。まして、経営者の中ではますます少ないわけですから、店頭公開も成し遂げられたわけですし、是非山村さんの様な方に、日米関係において、後輩たちのいいお手本になっていただけたらと思います。僕らにも是非色々なことを教えて下さい。
山村 とんでもございません。

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雑誌「企業家」1996/11月号より転載。
本欄は(株)企業家ネットワーク様のご好意により実現したことを記し、謝意を表させていただきます。

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