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プロがプロに聞く経営の話
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目指すは写真屋のマクドナルド将来はヴァージングループのような航空会社もと夢が膨らむ
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Guest   プラザクリエイト社長 大島康広
Host オンキヨー会長 大朏直人

ゲスト…大島康広(プラザクリエイト社長)

1963年名古屋市生まれ、33歳。大学在学中に(株)中部写真を設立、86年「フジカラーパレットプラザ」1号店をオープン、フランチャイズ事業に乗り出し、88年全国展開を機に(株)プラザクリエイト設立。現在DPEショップ(写真の現像、焼き付け)の業界最大手。93年、社団法人ニュービジネス協議会/アントレプレナー大賞受賞、日経ベンチャー/'94ベンチャー・オブ・ザ・イヤー青年経営者賞受賞。95年9月からオリエンタル写真工業の再建に着手。


聞き手…大朏直人(オンキヨー会長)


モノをつくるというのは、子どもを生むようなもの

大朏 今日は大島さんのことをいろいろと聞きたいと思っています。最近始められた会社の再建のことなどもね。
大島 それは僕の方が大朏さんに伺いたいと思っています。今まで僕は、自分の好きなことを、ゼロから1、2、3と積み上げてきたんです。だけど再建は、いくら好きでもマイナス65ぐらいから始まるんですよね。ヤクザみたいな処理をしなければならない場面とか、忍びないけど、この子会社からは手を離すしかないな、という決断もしなければならない。
大朏 身をもってやってるわけだね。メーカーは初めてですか。
大島 初めてです。メーカーは楽しいですね。前に大朏さんから「製造業っていうのは楽しいよ」と伺った時は、正直言ってピンとこなかったんですけど、オリエンタル写真工業を再建するようになって実感しました。自分の会社が作った商品が、ヨドバシカメラにズラッと並んでるわけですよ。感動ですね。僕はずっとリテールをやってきたので、初めてモノづくりの感動を味わっているところです。
大朏 メーカーの、どういうところが楽しいですか。
大島 ゼロから1の世界があるということでしょうか。今まではどこかから仕入れて、加工して売るか、置いて売るかというだけの世界でしたから。本当にものを作るというのは、子どもを産むようなものですね。
大朏 全くそうでしょうね。大島さんの創業のきっかけはどういうことですか。学生時代からと聞いたけど。
大島 僕はお寺の長男で、生まれた時から将来が決まっていたんです。僕が継げば29代目というお寺です。長男はお寺を継ぐのが当たり前ということへの抵抗感といったら、すごかったですね。普通のサラリーマンの家庭に生まれた子がうらやましくてしょうがなかった。
大朏 なるほど。


写真少年が知った商売の楽しさ

大島 中学時代に出会った一眼レフカメラが僕を写真少年に作り上げましたね。中学2年の時『カメラマン』という月刊誌の創刊記念フォトコンテストに応募して、1万点ぐらいの作品の中から最優秀賞をとったんです
 
大朏 ほう、それはすごいですね。
 
大島 賞金で篠山紀信が撮った山口百恵の写真集を買ったんです。その本にあった篠山紀信の略歴が「お寺の息子に生まれる」。そうか、お寺に生まれてもカメラマンっていう職業はいいんだ、と思って自分を励ましました。篠山紀信や加納典明がカメラマンを職業として認めさせた時代でした。それからずっと写真少年。高校行っても、アルバイトはカメラ屋さん。お金がほしいわけじゃなくて、カメラ屋で新しいカメラに触りたくて。そこで、商売の楽しさを知るわけです。
大朏 なるほど。
大島 高校3年生になると、お店をまかせてくれるんです。金儲けが楽しくてしょうがない。ところがそれまで「好きなことをやれよ」と言っていた父親が、高校卒業する時に「そろそろお寺の修行に行って来い」と言うわけですよ。もう、考えられない…。
大朏 理解のあるような顔をして(笑)。
大島 頭のどこかでは、継がなきゃいけないってわかってる。だから文句言わずに、京都の禅林寺永観堂で2ヶ月間修行しました。人生観変わりますね(笑)。精進料理だし、新聞もテレビも女もない。
大朏 それはいい経験だったね。
大島 そう思います。その修行から帰って、化粧品会社のイベント・カメラマンのアルバイトを始めたんです。化粧品を3千円以上買ったら、化粧店の店頭でウェディングドレスを着た写真をプロが撮ります、という企画を考えて、それをある化粧品会社と一緒に遊び半分でやったのが…。
大朏 当たったわけだね。
大島 そうなんです。だんだん自分がアルバイトを使うようになって。土日は3軒4軒かけもち。金儲けってこんなバカバカしいものかって。
大朏 意外に楽なもんだと(笑)。
大島 ええ、大きな錯覚をしました。僕の祖父はお寺の住職のプロとでもいうような人だったんです。ぜいたくもしないで、浴衣か袈裟を着ているところしか、見たことなかったです。それでも人生を楽しんで、いつも笑顔で。そのおじいちゃんがやってきたことを自分は事業の中でかじってるんだなって、やっとこの1、2年感じてきました。
大朏 大島さんは先輩に対する対応の仕方を見ていても、長幼の序というのか、おじいさんに教えられて備わったんだろうね。商売でうまくいく人は、年上、先輩たちに可愛がられる人ですよ。大島さんにとっては芸ではなくて初めから備わったもの、自分の常識の中にあるものなんでしょうね。
大島 それから大学1年の時家にあった謄写版でハガキ刷ってDM作って、学校の写真部宛に送ったんです。セントラル・フォトサービスなんて名前つけて。ある女子校から卒業アルバムの発注があって、うれしかった。それが一番最初の大きな仕事でした。何千万という単位でしたから。2年がかりで作ったアルバムがまた評価されて…。19から21歳ぐらいまで、15校ぐらいやってました。


写真のマクドナルドを目指す

大朏 忙しかったでしょう。
 
大島 忙しかったです。それである日、税務署からお呼びが来たんです。税務署も二十歳の坊やが来るとは思ってなかったでしょうね。それでこのままじゃいけないって、会計士さんにお願いして、株式会社中部写真という会社を作ったんです。それがちょうど、アメリカで1アワー・フォトができた頃なんです。アメリカではお店の中にミニラボがあってショッピングしている間に現像できちゃう。それが急速に広がっていた。ところが日本では全然広がらない。日本は系列化されたルートがありましたから、翌日仕上げが定番だったんです。ミニラボが普及すると大型現像所が一気に潰れてしまう。だからメーカーはあまり急速にすべきではないという思惑があって、すごく遅れたわけです。パレットプラザは、そこにポコッとはまりこんだんでしょうね。当時、僕が悩んでいたのは、大島の名前じゃ銀行が信用してくれないことでした。一生懸命説明しても50万、100万の金が借りられない。辛かったですね。カメラマンの頃からフジフィルムの技術や品質や安定度が好きだったのでフジの看板をどこかに掲げたくて。「フジカラーパレットプラザ」の企画書を作って商標を借りたんです。店ではその看板の左右に直径1メートルぐらいの時計を置いて、今の時間と、30分ずらした仕上がり時間を掲示しました。
大朏 ああ、それはおもしろいね。
大島 僕が作ったお店はファーストフードの雰囲気で、制服を着た女の子がいて、接客なんかすごく軽い。それがよくはやって、オープンから3ヶ月間は1店舗あたりの売上が毎月500万円ぐらいありました。20代前半の独身の男が、毎月、150万円の遊び金を持つとどうなるか、1年ぐらい完璧に遊びまくりました。
大朏 いい経験をしたんだ。
大島 そういう時モスクワにマクドナルドがオープンして人が並んでいるのをニュースで見て、「写真のマクドナルドになろう」と思ったわけです。それから1日24時間働いて、写真の撮影しながら1年で4店舗作りました。ところがお金が足りなくて、4店舗目を内装屋に取られて…。自分一人の力なんて知れてるって思いました。なぜマクドナルドは50年で世界に1万5千店も出店できるんだろうと思って。それでフランチャイズに目を向けるようになりました。
大朏 今何店舗ぐらいですか。
大島 フジカラーパレットプラザが640店で、子会社でFCチェーンのナイスプリントショップ・ジョ−が100店舗。
大朏 僕はその業界のことはわからないけれど、その数はダントツ?
大島 おかげさまでダントツです。ダイエー、ジャスコ系列の店で300店ぐらいですから。
大朏 売上はどれぐらいですか。
大島 プラザクリエイトは108億円、エンドユーザー向けの売上だとFCですから250億ぐらいです。
大朏 今までは、師と仰ぐ先轟はいなかったわけですね。学生時代から自分で切り開いて来られたわけだから。
大島 最近アサヒビール会長の樋口廣太郎さんにプラザクリエイトの特別相談役になっていただいたんです。僕の中でおじいちゃんと重なるところがあるんです。それで無理にお願いしました。行くたび叱られます。ボロッカスですよ。でも懐深いというか、こういう人になりたいと思わせてくださる人で、大好きです。この人にこだわってやろうと思ってるんです。
大朏 そういう人に巡り会えたことは幸せなことですね。大島さんはこの仕事やっていなかったら住職をやっているところだから。
大島
相談に行くと樋口会長は「やれ」と言ってくださるんです。経営者っていつでも決めている部分がありますよね。決めてるんだけど、押してほしい。そういう時樋口会長の役割は大きいですね。オリエンタルの時もそうでした。


新しい映像の時代…オリエンタル再建に乗り出す

 
大朏 オリエンタルはどういうきっかけだったんですか。
 
大島 オリエンタルは日本で最初にフィルムや印画紙を作った会社で、約80年の歴史があります。フジフィルムより15年古い。そのことはカメラマンの頃から知っていました。
 
大朏 日本の写真工業の草分けなんだ。
大島 会社更生法が適用されることを新聞で読んだ時は、何も思わなかったんです。オリンタルが幕を閉じるって聞いた時、やはり新しい映像の時代が来るということを感じたんですね。ところがオリエンタルがカラーペーパーなどの感光材料を塗布できる技術を持っているのは、世界で5社しかないんですが、その1社だということがわかったんです。フジフィルム、コダック、コニカ、オリエンタルが過去、中国にプラント輸出したラッキーフィルム。たとえば韓国には1社もないんです。
大朏 そうなんですか。
大島 自分だったらこうするのに、と考えていたんです。ということは、自分でやる気になってるわけですよね。それで樋口会長に、社員のためにも今こういう冒険はするべきじゃないと思うけれども、やりたいと言ったら、「ほかのことはいつでもできる。しかしこの会社を助けるのは今しかできない。だからやれ」って言うんですよ。それで僕、のこのこオリエンタルの本社に行ったんです。
大朏 言うなれば自薦したわけだ。
大島 はい。樋口会長がバックにいるんで、堂々と行ったわけです。最初、保全管理人の弁護士の先生は「なんじゃコイツは」って感じでしたよ。
大朏 そうだろうねえ。
大島 一生懸命説明しても、なかなか分かってもらえない。とりあえず一旦引いて、樋口会長に報告しました。「もう1回行ってこい」。それでまた行って、やりとりしているうち、会長が「弁護士を1回連れてこい」、と。会長はオリエンタルなんてさっぱりわからなかったんですよ(笑)。でもお前がそれほどやりたいならって…。
大朏 なるほど(笑)。
大島 弁護士さんは、たぶん大島さんがやれば、少なからずよくなるだろうと言って下さいました。しかし事業管財人は、東京地裁では名前がないと…、樋口会長とお二人でやられたらどうですかって。僕は絶対ダメだと断わりました。万が一僕が失敗したら、経団連の副会長も務められた会長に迷惑がかかりますので…。そのうちに樋口会長が弁護士に会って下さって、「オレは大島の屏風になってやる、屏風はいつも開いていなくちゃいけない」と言って下さったんです。それで樋口会長が管財人、僕が管財人代理で事実上の管財人ということになったんです。


写真の楽しさをアジアのいろんな国に広めたい

大朏 オリエンタルの社員は何人ぐらいですか。
 
大島 グループ3社で400人ちょっとぐらいです。
 
大朏 どんなところから着手されてるんですか。
 
大島 やっぱり明るくすることですね。一番最初に有線放送を入れました。みんな下を向いているものですから。モノづくりのデザインもこの夏から全部変えます。品揃えも国際的に調達して、みんなが感動するような商品が出るような仕組みで進めています。
大朏 楽しみですね。他には大島さんはどんな目標を持っておられるの。
大島 まず写真のマクドナルド、世界に1万5千店。写真の楽しさをアジアのいろんなところで広げていくことが次のステップだと思っています。それで香港、台湾、中国で店舗展開してるんです。
大朏 今度はハードも持たれたから、いいチャンスですね。
大島 はい。40代になったら、航空会社もいいなあと思っているんです。イギリスのヴァージングループの会長の生き方を見てて…。だれにも言ったことのない話なんですけど…。
大朏 「こういうことがやってみたい」と単純に言える人ってすてきだと思うし、それを言える人は必ず実行できる。  僕も何年か会社再建をやってきたけど、的確に目的を決めてやることだね。それで会社も明るくなる。直さなければいけない項目なんて100も200もあるわけ。全部羅列して、これは誰こっちは誰がやるって決めていくと、役員なんかいなくても決着がつくことばっかり。大島さんが決着つけなきゃならない問題なんて、人事だけだね。問題をいろいろ挙げさせると、ほとんど挙げた人たちが直せるんだ。
大島 それが挙がらないっていうか…。考えないし変わらない。そういうところの打開策が大変というか。
大朏 だから、そういう会社になってしまったわけだから。それで大島さんがやるチャンスができたんだから(笑)。
大島 そうですよね。再建始めて半年たって、変わってきたなって実感として感じるようになりました。僕が得だと思うのは、年上の人にも飾らずに「一緒にやろうよ」って言えることです。
大朏 オリエンタルの中では一番の新参者なんだし、あなたより会社のことを知っている人ばかりなわけだ。だとしたら、そういう人たちを利用しない手はないよね。彼らは黒字会社にするやり方を知らなかっただけで、教えれば何でもやります。一般的にどこでもそうなんですよ。じゃあ何を教えるっていうと、教えることなんて何もない。逆に僕の方がいつもいろんなことを教えてもらう。あなた方の技術にどういう問題があるんだ、どうやったら直せるか、私の役割は何かって聞くと、私がやることなんかない。今まで彼らがやらなかっただけなんだ。
大島 そうですよね。
大朏 私の顔と声で、どこか脅かしてこい、謝ってこい、調整してこいって言うならやりましょう。そうしたらあとはちゃんとやるかって。現場の人が一番よく分かっている。知っていて言わないだけ。何を言ってもこの会社は直らないということを歴史の中で積み上げてきてしまった。だから悪くなってしまった。彼らの求めていることをきっちりやってやると、どんどん良くなってくる。けっこう大したことじゃないことで悩んでるんだから。そう思わない?
大島 聞いてみるとそうなんですよね。右か左か決めてないから、やってない。
大朏 だれも決めてくれなかった、ということもあるよね。その若さで売る楽しさを知っていてこれで作る楽しさを知って、鬼に金棒ですね。最近はインターネットだってずいぶん騒いでるけど、OA化はどうですか。
大島 今期は1人に1台パソコンが行き渡って、秋には稟議や報告書すべて電子化します。
大朏 うちが最初にやったのが、二次元、三次元のCAD。それで納期を決める、部品表が出る、値段が決まる、製造ラインが決まる、というのを、まず設計図の時からきちっと決めるわけ。これをやったら何人もいらなくなる、と思ったら社員は力出ないよね。だけどこれをやり上げたら、その人がほかの会社で活躍する場をいくらでも探してきてやると言うと頑張るね。だって分厚いFAXが毎日工場に送られていたのが、電子メール1本。しかも向こうで自由自在に直せるでしょ。こんな便利なものを導入しない手はないよね。


社員平均年齢20代…海外研修に力を注ぐ

大島 プラザクリエイトは平均年齢20代なので、電子化は話が早いんです。
大朏 役員さんは大島さんより年上?
大島 みんな年上です。うちの会社は給料も年齢を敬うことにして、45歳までは年齢掛ける1万円。
大朏 いいよね、平均年齢20代だし。
大島 あと年2回の賞与。1回0.5カ月から6ヶ月までの評価です。だから20代でも6ヶ月2回で180万持っていくこともあります。悪かったら2年で落ちる。新しい会社だから、そういうことができるんですね。ほかには、海外研修を一生懸命やらせています。勤続3年以上、主任クラス以上でリーダー格の人は、自分の行きたいところを申請するんです。一律7万円を会社が負担して、例えばアメリカ西海岸で大型チェーンストアの店やインテルの工場を見に行っている。15万円ぐらいだと掲示板に張り出すわけです。そこにほかの社員がぶら下がる。縦列的なものを飛び越して、経理と事業部の連中が一緒に海外旅行に行くんです。
大朏 学生時代のクラブ活動のようなものですね。いいですね。
大島 大朏さんみたいに…、失礼な言い方ですけど、やりたいことやってカッコよく生きるってすばらしいですね。オンキヨーというブランドも含めて、生き方がカッコいい。僕もそうなりたいと思います。
大朏 何をおっしゃる。僕はだれにでもどうせ生きるならカッコよく生きろって言ってる。100万円しかないのに1千万円あるような見栄はちっともカッコよくない。100万を上手に使える、そういう知恵のある人の方がカッコいいよね。大島さんは一生懸命やっておられるわけだけど、うちのボスみたいになりたいと社員に思われるような社長の姿でなければね。これからも頑張ってください。

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雑誌「企業家」1996/5月号より転載。
本欄は(株)企業家ネットワーク様のご好意により実現したことを記し、謝意を表させていただきます。

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